中村海人の元カレ感

 

 

※担降りブログではありません。

 

トラジャが渡米してはや半年。(はや?)

2020年頭くらいに突然トラジャにはまり、2022年3月まで非常~に濃厚なオタク人生を送ってきた。

コンサートも外れたし、虎者も1回しか当選せず、トラジャの現場もその一回のみという怪奇なオタク人生を歩んできたけれど、非常に濃い2年間を過ごした。

 

 

トラジャのすごい所って、確実にいろんな面でオタクとは住む世界が違うのに、異様な身近さを感じさせるところだと思う。

同世代だからかもしれないけど、なぜかものすごく身近に感じる。そうやって思い上がった頃にちょうど良く中村海人に一般人年収コーデ(全身で300万越えの服を着てきたこと)を見せつけられて「あ、住む世界違うわ」と、ちゃんと引き離してくれた。

 

あと、渡米してから気づいたけれど、トラジャの「東京に居そう」感。あれすごく良かった。あれも「身近さ」の一つだと思う。

日本にいそうとかじゃなく、「東京」に居そう。

東京と言っても吉祥寺とか練馬とかじゃなくて、表参道とか代官山とかに居そう感。

正直表参道とか渋谷に行くと、「今日トラジャの誰かしら居そうだな~」と思わざるを得ないくらい、「東京に居そう」感がすごかった。まあ本当にいたと思うけど。

 

なんかあの、確実に日常が交わることはないけれど、瞬間瞬間で交わっていそうな絶妙な距離感を感じさせたトラジャがとにかく絶妙で、その距離感にどっぷりはまっていったことも事実だと思う。

 

 

ここで本題に戻るけれど、トラジャ、もっと言うと中村海人が渡米してからの元カレ感がすごい。

元カレ、言っても思い出して胸が苦しくなるような元カレがいるわけではないので想像だけど、渡米して半年たった中村海人は「推し」「自担」とかじゃなく「元カレ」が一番適切な感情な気がする。

※かといって、担降りしたわけではありません。

別れ方としては、「2年付き合ってこれからもずっと一緒に居られると思ったし、これが最後の恋だと思ってたけど、突然叶えたい夢があるからと言われ、好きだけど別れた」みたいな感じ。「2年付き合って」の部分と「別れた」の部分以外、今回の渡米はつながると思う。

 

実際この2年、本当ーーーに中村海人が好きだった。本当に自分の主成分が中村海人だったし、中村海人が最後の推しだと思った。

というか、自分の主成分が中村海人だったことに気づいたのは渡米してからだった。

渡米してから現場もなく、グッズや雑誌もなくて「中村海人」という人間を推しきれない自分にアイデンティティの喪失を感じた。

中村海人を好きな自分」がめちゃくちゃ好きなことにも気づいた。

 

今まで最長の推しは中村海人、というくらい熱しやすく冷めやすく、更に冷めるともう感情が戻ってこない私にとって、オタク3年目を迎えたことは快挙だった。

 

 

ただ、今回の状況で特殊な部分は「謎の未練感」が残っているところだと思う。

渡米してから何回もアジカンソラニンの「あの時、こうしていれば あの日に戻れれば」というフレーズが頭に浮かんだ。(キモ)

今までの推しに「後悔」みたいな感情が浮かんだことはない。

好きなら好きだし、飽きたなら飽きた。飽きた後は一切感情なし。

テレビで見ても「好きだったな、、」とか無し。後腐れなしだった。

 

私がどう生きていても中村海人は渡米していたと思う。けれど、なぜかそこに異様な「未練」の感情がこみ上げてくる。

 

 

インスタでたまに写真がアップされるのも一因な気がする。

渡米後、髪が伸び、こんがり日焼けした彼に渡米前の雰囲気を感じないけれど、そのビジュアルの変化も「元カレ」っぽい。

インスタが更新されると「あ~。別れてからこういう路線になったんだね(笑)」みたいな気持ちになる。この(笑)は笑っていない。変わりゆく何かを感じて悲しい気持ちになっているけれど笑わないとどうにもできない感情の(笑)。

 

ビジュアルが変わったことで「好きだったころの中村海人」というものが確立された。

この、「今の彼はもう気にしていないけれど、過去に好きだったことに嘘をつけない感じ」とか、「今は何も感じないけれど、昔の彼を見ると苦しくなる感じ」、元カレでしかない。しかも好きなのに別れた元カレ。

 

 

私は今の彼に対してそこまで「好き」と思えなくなったけれど、昔の写真や動画を見ると「この人のこと、一生忘れられないかもな、、」みたいな気持ちになる。

 

これはリアコ感情とかガチ恋感情とも違うと思う。

別に中村海人が表舞台から姿を消したわけではないから何も「あきらめる」必要はないけれど、「思い描いていた未来」と違う今を歩んでいるせいで、推しに対して珍しい「あきらめなくてはならない」みたいな気持ちが芽生えてくる。

 

今回の最大の元カレ感、冒頭の「東京感」につながるけれど、表参道、代官山、宮益坂、下北沢とか、実際にYouTube等で中村海人が行っていた場所に行けなくなった。

行くと「ああ、ここに中村海人がいたな」とか、「ここで笑ってたな」とか思い出して苦しくなってしまうからだ。本当に気持ち悪い。

大体こういうのって、元カレといった場所に行くと思いだして辛くなるとか、そういう時に起こることだと思う。

けど、まったく同じ感情が浮かんできてしまう。

もっと言うと、虎者で新橋演舞場に行った日、普通に帰れるくせに銀座に泊ったのだけれど、「中村海人を生で見ることができた日」と「冬の夕刻の銀座のキラキラ感」が重なって本当に夢みたいな時間だったことを思い出して苦しくなるので、銀座も行けなくなった。キモ過ぎんか?

 

どれもこれも、「東京に居そう感」と、「今はもう居ない」事実のせいだと思う。

実際に中村海人と東京を歩いたことはないけれど、東京に居た事実がYouTubeの映像や雑誌などの写真であるせいで、「ここにいた欠片」が東京にはそこかしこに残っている。

 

 

私は海外に行ったことがないけれど、アメリカが遠い場所なことはわかる。

景色も違うし、時差もかなりある。

そういうものによる物理的な距離が「もうここに居ない」事実をどんどん色濃くしていく。

 

渡米してから本当に中村海人は大人になっていると思う。上から目線に聞こえるけど。

その感じも「もう自分の知っている彼とは違うんだな」みたいな元カレ感につながる。

 

けど、まだ中村海人のことが死ぬほど好きだったことも、感覚も覚えているのが厄介だし、未練感につながる。

渡米して以来、何度もくるりの「東京」の歌詞が頭に浮かぶ(デジャブ?)。

 

youtu.be

 

「君がいないこと 君とうまく話せないこと

 君が素敵だったこと 忘れてしまったこと」

 

そう。わかる。素敵だったことも好きだったことも忘れているようで忘れてない。ずっとキモイな。

 

 

私はずっと、中村海人を降りるときは自分都合でいたいと思っていた。

例えば流出や結婚で降りるとかではなく、自然に「あ、もういいや」となっておりたいと思っている。

過去の推しも、大体この感じで降りているので後腐れが全くないし、後悔とか未練とか夢に出てくるとかがない。

でも今、「このまま好きでいるぞー!」みたいな最盛期に無理やり振られたし、振ってきた割には「夢が叶ったら必ず帰ってくるから、待っていてほしい、、」と言われたみたいな、振るなら嫌いになるように振ってよ、、というメンヘラ女みたいな状況になっている。

 

降りたくないし好きでいたいし、けど今「めちゃくちゃ好き!!!!!」とも違う、これはやっぱり「元カレ感」としか言いようがないと思う。

 

 

夢が無事叶って帰ってきたとき、ビンタの一発くらいさせてくれ。

 

 

 

 

2022.0901